痛みを抱えて生きる人は不幸なのか?幸福の本質と「意味をつくる力」について

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■ 「痛みがある人生は不幸ですか?」

もし、誰かが「あなたは幸福ですか?」と聞いてきたら、どう答えるでしょうか。

持病がある。
痛みがある。
不安がある。
それでも笑っている日もある。

そんな日々のなかで、「幸福か不幸か」という白黒の問いに、簡単に答えられる人はいないはずです。


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■ 幸福には「二つの種類」がある

心理学の世界では、幸福は大きく2つの種類に分けられています。


① 快楽的幸福(Hedonic Happiness)

これは、**「痛みがなく、楽しいことがある状態」**です。
美味しい食事、安定した収入、人間関係の安定。
まさに身体的・物理的な快楽によって感じる幸福です。

しかし、持病や慢性的な痛みを抱えている人にとって、
「痛みがない=幸せ」という構図は残酷です。
なぜなら、それでは一生幸せになれないことになるからです。


② 意味的幸福(Eudaimonic Happiness)

もう一つの幸福は、「自分の人生に意味を感じている状態」です。
たとえ困難があっても、「私はこれを通して何かを伝えられる」
「私はこの経験を誰かのために活かしたい」と思えたとき、
人は深く満たされた感覚を持つことができます。

これは、痛みを“なかったこと”にしなくても得られる幸福です。


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■ 「なんのための痛みか」がわからないと、人は壊れる

慢性的な痛みを抱える人が「私は不幸だ」と感じるのは、
その痛みが「いつ終わるかもわからない」「意味もわからない」からです。

人間の脳は、「つらいこと」に意味があれば耐えられる構造をしています。
逆に、**「意味がないつらさ」**は、人間を静かに破壊します。

たとえば、ただ痛みが繰り返されるだけの毎日。
誰にも理解されない不調。
助けを求めるたびに「気のせいでしょ」と言われる苦しさ。

これらは、**身体の痛みだけでなく、心をも削る「無力感」**を生みます。


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■ でも、「意味」は後から作れる

ここに小さな希望があります。

人生の意味とは、与えられるものではなく、自分でつくるものでもあるのです。

  • 同じように苦しんでいる人に寄り添える

  • 言葉にすることで誰かを救える

  • 自分の経験を「価値あるもの」に変えられる

これは自己犠牲ではありません。
「自分のために、自分の痛みに意味を与える」
という、**“自己肯定の回復行為”**なのです。


■ 「心のありどころ」はどこに置くかで変わる

幸福か不幸かを分けるのは、「心をどこに置くか」という選択です。

  • 他人の評価に置けば、心は揺れます

  • 過去の傷に置けば、心は沈みます

  • 不安な未来に置けば、心は逃げ出します

でも、「今この瞬間に私は呼吸をしている」
「今日もこの痛みの中で、生きている」と感じられたとき、
心はふっと、自分の場所に戻ってきます

それは、どんなに弱くても、「私はまだここにいる」という実感です。


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■ 終わりに:幸福とは、「自分の人生を意味あるものにする力」

たとえ体に痛みがあり、気分が沈む日があっても、
「私には、この経験を意味づける力がある」
そう思える人は、たしかに“幸福を生きている人”です。

幸福とは、与えられるものではなく、
「意味づける力を失わないこと」そのものなのかもしれません。

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