うつ病の私は、今日もベッドの上でげっそりしている。
(›´ω`‹ ) ゲッソリ
身体はこんな状態なのに、頭の中ではなぜか、性風俗と性感染症、そして人間の道徳心について考えていた。
きっかけは、あるカップルの日常を紹介する動画で、性感染症の話題を目にしたことだった。
そこから話は広がり、性風俗という仕事について考えるようになった。
なぜ人は、性の話をすると笑うのだろう。
なぜ性風俗で働く人は、仕事だけでなく、人間性まで否定されることがあるのだろう。
そして、性感染症にかかったら「自業自得だ」と責められることがあるのは、なぜなのだろう。
ベッドの上でげっそりしながら、そんなことを考えていた。
生き抜くために、自分が持っているものを使うことは悪いことなのか
人間は、生きていくためにさまざまなものを使ってお金を稼いでいる。
知識を使う人もいれば、体力を使う人もいる。容姿や話術、技術、経験を生かして働く人もいる。
では、自分の身体を使ってお金を稼ぐことは、そんなに悪いことなのだろうか。
性風俗で働く理由は、人それぞれだと思う。
生活のために働く人もいれば、収入や働き方を考えて選ぶ人もいるだろう。本人にしかわからない事情もあるはずだ。
もちろん、性風俗の仕事には、暴力や搾取、望まない行為を強いられる危険もある。そうした問題は、きちんと考えなければならない。
けれど、仕事の環境に問題があることと、そこで働く人の人格に問題があることは、同じではない。
生きるために選んだ仕事によって、その人の人間としての価値まで低く見られてしまう。
それは、本当に正しいことなのだろうか。
性感染症にかかったら、自業自得なのか
性感染症にかかった人に対して、「そんな仕事をしているからだ」「遊んでいるからだ」と責める人がいる。
しかし、性感染症は性風俗で働く人だけがかかる病気ではない。
恋人が一人しかいない人も、結婚している人も、感染する可能性はある。感染していても症状が出ないことがあり、自分では気づかないまま相手にうつしてしまう場合もある。
性感染症には、適切な治療によって治るものもあれば、放置すると深刻な合併症につながるものもある。だからこそ、予防や検査、治療について正しい知識を持つことが大切だ。
ただし、感染を防ぐことが大切だからといって、感染した人をののしってよいことにはならない。
感染を知りながら相手に伝えず、感染の危険を無視する行為については、その行動の責任を問う必要があるだろう。
でも、感染したという事実だけで、その人の人格まで否定することはできないはずだ。
病気になった人に必要なのは、人格を責められることではなく、必要な検査や治療を受けられる環境ではないだろうか。
もし、この世に性感染症が存在しなかったら
私は、ふと考えた。
もし、この世に性感染症が一切存在しなかったら、人々の性に対する考え方は変わるのだろうか。
もちろん、すべての人の考え方が変わるとは思わない。
それでも、性感染症が怖くて性に奔放になれない人や、感染への不安から性行為そのものに慎重になっている人はいるだろう。
もし感染の心配がなかったら、性に対する心理的なハードルが下がる人もいるかもしれない。
そして、性風俗で働く人に対する見方も、多少は変わるのではないだろうか。
私は、3割くらいは変わるのではないかと想像した。
もちろん、これは私の感覚であって、実際にどれほど変わるのかを示すデータがあるわけではない。
それでも、性感染症への恐怖が、性に対する警戒心だけでなく、性風俗で働く人への否定的な見方にも影響している部分はあるのではないかと思う。
ただ、性感染症が存在しない世界になったとしても、性に対する道徳観や、性風俗への偏見がすべてなくなるわけではないだろう。
感染への恐怖と、性そのものに対する道徳的な評価は、似ているようで別の問題なのかもしれない。
道徳や宗教は、人間が作り上げてきたもの
人間には、社会の中で暮らすための道徳や規範がある。
宗教もまた、さまざまな社会で性に関する価値観を形作ってきた。性行為を結婚や生殖と結びつけたり、一定のルールを設けたりする考え方もある。
もちろん、宗教だけが性への偏見を生んだわけではない。家族制度や歴史、文化、男女に求められてきた役割など、さまざまな要因が関係している。
それでも、ここで一つの疑問が浮かぶ。
人間が作り上げてきた道徳を、私たちはいつの間にか、絶対に変わらない正しさのように扱ってはいないだろうか。
道徳は、人を守るために必要なこともある。
他人を傷つけないこと、約束を守ること、相手の尊厳を大切にすること。そうした考え方は、社会で暮らすうえで大切だと思う。
しかし、道徳を理由に誰かを見下したり、人格を否定したりすることもある。
そのとき、道徳は本当に人を守るために働いているのだろうか。
それとも、社会が決めた基準から外れた人を裁くための道具になっているのだろうか。
性風俗で働く人を、なぜ見下すのだろう
性風俗で働く人に対する偏見には、性を特別なものとして扱う社会の価値観が関係しているのかもしれない。
たとえば、性行為は恋人や夫婦の間でするものだという考え方がある。
その考え方を大切にすること自体は、個人の自由だと思う。
自分は性風俗を利用しない。自分はそこで働かない。
それは、その人自身が選べばよいことだ。
問題は、自分が大切にしている価値観を、他人にも絶対的な基準として押しつけてしまうことではないだろうか。
自分が選ばない生き方をしている人に対して、「だからあなたは劣っている」と考える必要が、どこにあるのだろう。
仕事について批判的な意見を持つことと、そこで働く人を人間として見下すことは違う。
労働環境や安全性、搾取の問題について議論することは必要だと思う。
けれど、働いている人を一括りにして、汚い人間だと決めつけることには、何の正当性があるのだろうか。
病気への警戒と、人への軽蔑は違う
性感染症を予防したいと思うのは、自然なことだ。
身近な人が性感染症で苦しんだ経験がある人や、医療現場で患者さんを見てきた人は、感染症の怖さを強く意識することもあるだろう。
そうした経験から、性に対して慎重になることは理解できる。
しかし、感染症を警戒することと、感染した人を軽蔑することは別の話だ。
感染のリスクを知り、予防策を取る。必要であれば検査を受け、感染がわかったら適切な治療を受ける。そして、相手にも感染の危険があるときには、互いの健康を守るために必要な対応をする。
そうした行動こそが大切なのではないだろうか。
感染した人を責めても、感染症がなくなるわけではない。
むしろ、差別や偏見を恐れて検査や治療を避けてしまえば、本人にとっても周囲にとっても望ましくない結果につながる可能性がある。
病気を正しく理解することと、病気になった人を裁くことは、分けて考えたい。
人を裁く前に、少し考えてみたい
私は、性風俗という仕事を無条件に肯定したいわけではない。
危険な環境で働く人がいるなら、その環境を改善する必要がある。本人の意思に反して働かされている人がいるなら、その人を守らなければならない。
性感染症の予防も大切だ。
けれど、そうした問題があることを理由に、性風俗で働く人すべてを否定してよいとは思わない。
人には、それぞれ事情がある。
他人にはわからない生活の苦しさがあるかもしれないし、その仕事を選んだ理由もあるだろう。
私たちは、他人の人生のすべてを知っているわけではない。
それなのに、ある一つの行動や仕事だけを見て、その人の人間性まで判断してしまうことがある。
自分が正しいと思っている道徳は、本当に誰かを守っているのだろうか。
それとも、自分とは違う生き方をしている人を、安心して見下すために使われているのだろうか。
そんなことを、一度考えてみてもよいのではないだろうか。
ベッドの上で、私は考える
うつ病の私は、今日もベッドの上でげっそりしている。
(›´ω`‹ ) ゲッソリ
身体は思うように動かないけれど、頭の中では、こんなことを考えていた。
人間が作り上げてきた道徳には、大切なものもある。
けれど、その道徳を理由に誰かを傷つけているのなら、私たちはその正しさを問い直してもよいのではないだろうか。
生き抜くために、自分が持っているものを使うこと。
自分とは違う価値観で生きること。
そして、病気になったときに、必要な治療を受けること。
それらは、本来、誰かに人格まで否定されなければならないことなのだろうか。
私は、ベッドの上でげっそりしながら、そんな疑問を持った。
答えは、一つではないのかもしれない。
それでも、病気になった人を責める前に、その人を一人の人間として見ること。
自分の道徳を他人に押しつける前に、それが本当に誰かを守っているのか考えること。
そのくらいは、忘れずにいたいと思う。
……なんて、ベッドの上で真面目に考えていた。
こんなことを真面目に考えているから、うつ病になるんだと思うわ。
いや、うつ病の原因はそんな単純なものではないのだけれど。
(›´ω`‹ ) ゲッソリ
今日も私は、ベッドの上から社会について考えている。
身体はげっそりしているのに、頭の中だけは忙しいのである。

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