■ 「その優しさ、本当に“自分の意思”で選んだものですか?」
「人に優しくしなきゃ」「誰かを助けたい」
そう思っているのに、どこか心が苦しくなる。
そんなとき、その“優しさ”の出どころを一度、見直してみる必要があります。
■ 虐待の中で育まれた“命を守るための優しさ”
虐待や過干渉、支配的な家庭で育った人は、しばしば自分の感情や欲求を抑えて、周囲に合わせることで生き延びてきました。
その中で形成された“優しさ”は、ただの性格ではなく、生存戦略として身についたものです。
たとえば:
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相手の気持ちに敏感で、先回りして動いてしまう
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自分を後回しにしてでも、相手を優先してしまう
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誰かに頼られると断れず、疲弊してしまう
これらはすべて、「そうしないと生きていけなかった」記憶の延長線上にある反応です。
■ 優しさに“罪悪感”を感じるのはなぜか?
生存のために身につけた“過剰な優しさ”は、本人の意思ではなく強制されたものです。
だからこそ、心の奥に矛盾や罪悪感が残るのです。
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「私は本当に優しいのか?」
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「人に尽くしても、自分が空っぽになる」
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「助けても報われないのは、私のせい?」
そういった心の葛藤を解消しようと、人はある“答え”を求め始めます。
■ なぜ「優しすぎる人」は宗教に惹かれやすいのか?
宗教やスピリチュアルな教えには、「施しの美徳」や「献身は尊い」という価値観が強く語られています。
そしてそれは、生存のための優しさを抱えてきた人にとって、深く響くメッセージになります。
なぜなら:
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自分の“過剰な優しさ”に意味を見出せる
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愛されなかった過去の自分が「清らかな存在」だったと思える
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人から見返りがなくても「神が見てくれている」と思える
つまり、「優しさの所在」と「自分の存在価値」を一致させる拠り所を求めて、宗教に傾くことがあるのです。
■ 生ぬるい愛では到達できない、極限の優しさ
幼いころから愛され、守られてきた人の優しさは、自然発生的で穏やかなものかもしれません。
しかし、虐待を受けて育った人が持つ優しさは違います。
それは、**命をかけて編み出した“生き抜くための力”**です。
だからこそ、その優しさはときに極端で、深く、強く、壊れるほどに一方的です。
その根源を理解しない人からは、「やりすぎ」と見られることもあるでしょう。
■ まとめ:その優しさは、あなたの“武器”でもある
あなたが持っているその優しさは、**弱さではなく“生存を勝ち取ってきた証”**です。
ただし、それが自分を苦しめるなら、「どこまで使うか」「誰に使うか」は、もう自分で選んでいいのです。
宗教や思想に依存せずとも、
あなたの優しさには、すでに十分すぎる価値があります。
それは、どんな教義よりも過酷な現実の中で育まれた“本物”なのですから。
他の人に無理してニコニコしている自分を感じたら、追い詰められていると感じたら、相手に構うのはもう止めていいんですよ。
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