◆ 無敵の人という存在に、私は距離を感じられない
「無敵の人」──それは、もう失うものがないと感じた人が、社会の中で暴発する現象としてたびたびニュースになる。
本来なら、自分とは全く無関係で、遠くにいるはずの人。
でも私は、なぜかその人たちが**“まったく他人には思えない”**ことがある。
もちろん、私は誰かを傷つけたいとは思わないし、絶対に許される行為ではない。
だけど、彼らの**「壊れてしまった心の回路」**が、どこか自分と地続きのように感じてしまうのだ。
◆ 無敵の人が生まれる社会構造とは
無敵の人が生まれる背景には、単なる性格や生育環境ではなく、**「社会的孤立」や「絶望の長期化」**がある。
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家族も友人もいない、いても疎遠
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働く場もなく、金もない
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何か夢を持っても潰される
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医療にすらつながれない
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ネットでも「価値がない人」とされる
◆ 無差別に傷つけられる人々:理不尽すぎる現実
無差別事件では、なぜか“社会に希望を与える人”が被害に遭うことが多い。
2018年の新幹線車内事件で亡くなった梅田耕太郎さんは、
「止めなくてもいいのに止めた」
「命を投げ出して他人を守った」
そんな善意の塊のような人だった。
彼がいなければ、もっと多くの人が傷ついていたのは確かだ。
でも、「なぜ彼が死ななければならなかったのか」という問いは、今も私の中で消えない。
彼が生きていたのなら人々に愛されていただろうし、社会にもっと貢献できていただろうに。
彼の死は本当に残念だと思う。
◆ 「理解できてしまう」感覚に悩む
私は、被害者に心から同情している。
それでも、「無敵の人」の心理に少しだけ近い自分がいるのも気づいている。
その人たちが社会の底辺にどう落ちていったのか、なんとなく分かっしまう気がする。おそらく、私と思考回路が似ていると思う。
◆ 無敵の人がいなくなることを願って
今の時代は物価上昇でますます困窮する人が増え、ますます無敵の人が増えそうな気配がある。
一度落ちてしまうと、這い上がるのは難しいと思う。
考えても仕方ないと思うのだけど、どうなるのかなって思いながらいつも過ごしている。
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