精神疾患患者は引きずりすぎる――頭の中から消えない思考との闘い
何かあると、ものすごく引きずる。
執拗に、そのことしか考えられなくなる。
失敗したときも、嫌なことがあったときも、たぶん「普通」と言われる人よりもずっと長く、深く、引きずる。
考えすぎて、気力が奪われ、体が動かなくなることさえある。
まるで、思考の渦に飲み込まれたように。
どこからくるのか、この「引きずる力」は?
「体を動かしたら忘れるよ」と言う人がいる。
でも、それは軽度の悩みなら通用するかもしれない。
重症の人にとっては、そんなレベルじゃない。
動いたところで、思考は消えない。むしろ、動くことで「考える暇」が生まれ、さらに深く沈むことさえある。
人々は「切り替え」と言う。
「気にしない」「忘れよう」
でも、それができるなら、そもそも苦しまない。
なぜ、みんなそんなに簡単に切り替えられるのか?
不思議で仕方ない。
なぜ、普通と言われる人は「大丈夫」「切り替えよう」と思えてしまうのか?
なぜ、嫌なことがあっても翌日にはけろっとしているのか?
「うらやましい。」
それが素直な気持ちだ。
もし一瞬でも、何も考えずに過ごせるなら、それはどれほど楽なことだろう?
切り替えようとする私 vs 邪魔をするもの
私も、切り替えようとする。
「もう考えなくていい」
「気持ちを切り替えよう」
そう言い聞かせる。
けれど、その思考を邪魔する何かがいる。
過去の記憶、罪悪感、自己嫌悪、恐怖――それらは、私の意志を簡単に跳ね飛ばし、また頭の中を埋め尽くす。
こんな姿を見て「不器用だね」と言う人がいる
私が何かを引きずっていると、「そんなに考え込まなくても」「切り替えたら楽になるのに」と言う人がいる。
あるいは、「不器用だね」と呆れたように笑う人もいる。
でも、そういう人とはそもそも話が合わないのだ。
向こう行っててほしい。
私は今、引きずる何かを必死で抑え込もうとしてるんだ。
私の思考を邪魔するな。
引きずることには理由がある
人はそれぞれの考え方で生きている。
簡単に切り替えられる人もいれば、長く考え続ける人もいる。
必死で隠して普通に装っている人もいるかもしれない。
それなのに、「なんでそんなに気にするの?」と言われるたびに、私はその言葉に違和感を覚える。
「気にする」のではなく、そうせざるを得ない。
それが私の思考のクセであり、私の生き方なのだ。
引きずることで考えが深まることもある。
簡単に忘れられないからこそ、そこから何かを見出すこともある。
だから、誰かが「不器用」と評価するのは勝手だけど、
私はこの「引きずる力」を持って今日も生きている。
たぶん、これが私の行き方なのだろう。
簡単に切り替えられる人をうらやましいと思いながら、それでも今日も、考え続けているよ。
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