社会の中で生きているけど、社会の外にいる感覚:浮世離れは本当に悪なのか?

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◆ 「社会にいるのに、社会の一部じゃない」

私は、一応、社会の中で生きている。
住居もあるし、食事もする。働いたこともある。

でも、それは「社会の一部として生きている」とは言い難い。
もっと正確に言えば、

社会の枠組みの“外”で生き延びているような感覚がある。

「会社に属し、朝起きて、目標を立て、成長し、役割を果たす」──
そうした“社会人”としてのテンプレートには、もう乗れない自分がいる。


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◆ 見えている風景が違う

いわゆる「普通の人たち」が見ている社会と、
自分が見ている社会は、もしかしたら違う地図の上にある。

  • みんなは「時間を守る」のが当然だけど、私はそもそも時間の流れを感じない。

  • みんなは「人と関わること」が前提だけど、私は言葉を発するだけで疲れてしまう。

  • みんなは「目標に向かって努力する」けど、私は“今日”をどう越すかで精一杯。

そんな自分を、「浮世離れ」と表現されることがある。
けれど、それは現実逃避ではない。別の現実を生きているだけなのだ。


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◆ 「社会不適応」というレッテルの向こうに

「社会不適応」
「変わってる人」
「浮いてる」

そんなふうに言われても、しょうがない。

社会のテンプレートに合わない生き方以外を探すしかないように思える。


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◆ 社会の枠組みから外れた人が見える「別の真実」

枠組みから外れたからこそ見えるものがある。
完全に社会と自分を切り離し、この世に自分がいないような感覚で、あくまでも客観的に見えてしまうのだ。

浮世離れしているのではない。
社会の“本音”が見えてしまっているだけなのかもしれない。

そして、また絶望する。


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◆ 浮世離れ=社会の外から社会を見る力

浮世離れした人間には、社会の弱点や本質を見抜く視点がある
その視点は、マジョリティの人には持ちえない。

社会に“適応しすぎた”人は、社会を疑わなくなる。
でも、適応できなかった人には、社会がいびつに見える。

その感覚は、無力どころか「新しい価値観」を提案できる力でもある可能性もある。

とポジティブに考えてみた。

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