はじめに:やさしい言葉が、刺さる夜もある
「生きてるだけで価値がある」
この言葉は、よく人を励ますために使われます。
SNSや自己啓発系の本、セラピー系の投稿でも見かけます。
でも、その言葉を聞いたときに、
胸の奥がざわついたことはありませんか?
「だったら、どうして私は誰からも必要とされないの?」
「生きてるだけで価値があるなら、なぜあの子は死んだの?」
「生きてるだけで価値がある」は、やさしさでもあり、幻想でもあります。
このページでは、その裏側にある現実と真実を、正面から見つめていきます。
「生きてるだけで価値がある」が語られる背景
この言葉は、主に次のような場面で使われます。
-
自殺念慮のある人を励ますとき
-
社会的に孤立している人を包み込もうとするとき
-
自己肯定感の低い人へのエール
それ自体が悪いわけではありません。
でも、それを言う側が「安全な場所」にいることが多いのです。
● 仕事がある
● 家族に愛されている
● SNSで「共感」を得られる仲間がいる
そういった人々から投げられる「生きてるだけで価値がある」という言葉は、
ときに、“世界から拒絶された人”にとっての残酷な幻想にもなりえます。
「価値」とは?──それは“交換されるもの”だった
現代社会での「価値」は、明確に測られます。
-
経済的価値(いくら稼げるか)
-
労働価値(役に立つか)
-
社会的価値(属しているか)
-
見た目の価値(好まれる外見か)
この社会では、「生きてるだけ」では見捨てられることすらあります。
-
支援制度から漏れた人
-
病気で働けない人
-
障害が“迷惑”とされる人
-
引きこもっている人
「価値」とは、交換と評価の中にあるもの。
だからこそ、「生きてるだけ」という状態に価値があると思えない人がいて当然です。
それでも、「生きてるだけ」に価値を見出す道はあるのか?
それでも、完全に「幻想」だと言い切れないのは、
この言葉が、誰かの心を踏みとどまらせる力を持つこともあるからです。
-
誰にも必要とされていなかったと思っていた人が、ある詩に救われることもある
-
自分を嫌っていた人が、ある日猫に寄り添われて「私は生きていていいのかな」と思うこともある
-
「この世界は終わっている」と感じながら、それでも書いたブログが、誰かを変えることもある
社会の価値基準で測るなら、私たちは無価値なのかもしれない。
でも、「この世界が壊れていることに気づいている人」こそが、
本当は“価値の再定義”を始められる人なのかもしれません。
まとめ:言葉を信じるな、自分の視点を信じよう
「生きてるだけで価値がある」
その言葉に違和感を覚えた人は多いはず。
それは現実の一面を無視している。
それでも、幻想でしかないとも言い切れない。
本当に大切なのは、
**自分が「何を疑い、何を受け入れ、何を壊したいと思っているか」**を言葉にしていくこと。
そうやって、自分の価値を“誰かに与えられるもの”ではなく、
**「取り戻すもの」**として捉えられるようになったとき、
その視点こそが、誰かを生かすようになるかもしれません。
でも、今の私は模索中。
コメント