踏みとどまった人の苦しみは、なぜ見えなくなるのか
世の中では、「起きた出来事」だけが語られることが多いように感じます。
大きな行動、極端な選択、目に見える結果。
それらはニュースになり、言葉にされ、人々の記憶に残ります。
けれど、その一方で——
何も起こさなかった人の内側は、ほとんど語られません。
人は「決めた範囲」の中で生きている
人間は、無限に自由な存在ではありません。
無意識のうちに「ここまでは耐える」「ここから先はしない」という、自分なりの行動範囲を決めて生きています。
心理学や行動科学の分野では、
「人は過去の経験や学習によって、自分の可能性の上限を設定する」
という考え方が知られています。
たとえば、動物実験で観察されたように、
一度「ここまでしか届かない」と学習した存在は、
条件が変わっても、それ以上を試みなくなることがあります。
人間も、決して例外ではありません。
範囲が広がってしまうとき
多くの人は、強い苦しみの中でも踏みとどまる力を持っています。
時間をかけて、抑制し、耐え、日常を続けていきます。
けれど一部の人は、
心身の限界や感覚の変調によって、
自分で設定していた範囲が、ある瞬間に大きく広がってしまうことがあります。
それは衝動ではなく、
長い時間をかけて蓄積された負荷の結果であることも少なくありません。
「止められたはずだ」と外から言うのは簡単です。
しかし、もし本当に止められたのなら、
多くの人は、そうしていたはずなのです。
行動だけが評価される社会
社会は、とても不思議な仕組みをしています。
- 行動した人は「なぜそうしたのか」と問われる
- 何も起こさなかった人は、問いすら向けられない
耐え続けた人の苦しみは、可視化されないまま残るのです。
結果が出なかったから、問題がなかったわけではありません。
声を上げなかったから、痛みが小さかったわけでもありません。
ただ、表に現れなかっただけです。
表現できなかった苦しみについて
人によっては、
「踏みとどまる」という選択そのものが、
誰にも理解されない孤独な闘いになることがあります。
何も起こさなかった人生の裏側に、
語られなかった感情や、見過ごされた限界があること。
それを知ろうとする姿勢が、
これからの社会には必要なのではないでしょうか。
もし、今とても苦しいと感じているなら
この記事は、特定の行為を肯定するものではありません。
そして、あなたが一人で耐え続ける必要もありません。
誰かに相談してみてください。
「話すほどのことじゃない」と思う必要はありません。
言葉にすること自体が、負担を軽くする場合もあります。
おわりに
踏みとどまった人の苦しみは、
目に見えないからこそ、忘れられがちです。
でも、起きなかった出来事の裏側にも、確かに人生は存在する。
そのことを、私たちはもう少し丁寧に扱ってもいいのかもしれません。

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