「生きる意味」を考えたとき、宗教に触れる人が増える理由
■ うつ病になると「生きるとは何か」を考えるようになる
うつ病になると、「今日をどう生きるか」だけでなく、
「生きるとは何か」そのものを深く考えるようになります。
日常の中にあった“当たり前”が崩れ、
存在そのものに問いを投げかける時間が増えるのです。
■ そんなとき、宗教が語る「生きる意味」に触れる
「生きるとはこういうことです」
「人はこうして救われるのです」
こうした答えを明確に示してくれるのが、宗教です。
だからこそ、うつ病の人が宗教に目を向けることは不自然なことではありません。
■ 信じる・信じないを問わず、共感することもある
もちろん、宗教に共鳴し、信仰に救いを見出す人もいます。
一方で、信じるまでには至らないけれど、心に響く部分があるという人もいます。
私が見てきて心に響いたものは
たとえば:
-
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(キリスト教;コリントの信徒への手紙一 13:4-7)
-
「あらゆる苦は人間の執着に起因する(仏教)」
こうした理想や希望、本質に近いメッセージは、宗教の教えの中に多く見られます。
■ 私の場合:信じるわけではない、でも否定しない
私は、神様の存在を信じているわけではありません。
見えないものや感じないものを信じるタイプではないからです。
しかし、生きていると「なぜか不思議だな」と感じる出来事に出会うこともある。
それが何かの“導き”かはわからないけれど、完全に否定することもない。
信じる証拠もないし、否定する証拠もない。
宗教に傾倒はしないけれど、
その思想の一部に共感することがあるのも事実なのです。
■ 「なぜ生きているのか」——この問いに、答えがない
でも、いろいろ書物を読んでも、なぜ「生きているのか」っていう答えだけがない。
人によっては「自分はありました!」っていう人がいるかもしれないけど、私にはなかった。
私にとっては神様とかどうでもいいので、「なぜ生きているのか」っていう答えだけ欲しい。探し続けたが、なかなか私に刺さる言葉がない。
そういうのは本当はなくて、個人個人が意味づけしているだけなのかもしれないと思っている。
これを30年ぐらい考えていると、正直いうと無の境地になってしまった。
「なぜ生きているのだろうか」っていうのを考えなくなった。
ここに至るまでは辛い。
無の境地というのか、ある意味で慢性的なうつ病になったのか分からないでいる。
■ うつ病と宗教:「答えを求める心」との関係
うつ病になると、人は「理由」や「意味」を探すようになります。
宗教はそれに対して、体系的な“答え”を提示してくれます。
ただ、その答えを「信じるか・信じないか」は人それぞれ。
大切なのは、心が少しでも休まるヒントをどこかに見つけられるかどうかです。
もし心に安らぎを覚えることがあったのなら、それは大切にしたほうがいいと思います。
■ まとめ:宗教を信じる信じないより大切なこと
うつ病と宗教には、「生きる意味を探す」という共通のテーマがあります。
信仰を持つかどうかは別として、
その教えの中に、心に響く何かがあるなら、それは“立ち直るための糸口”になるかもしれません。
見えないものを信じるかどうかは自由。
でも、共感した部分を否定しないことが、自分自身との対話を深める第一歩になるのかもしれません。
自分が納得いく、生きやすい方法を見つけたり、知った教えを改変したりして自分に合わせ、何とか生き抜いてください。
それでも無理だったらしょうがないよねって、私はあなたの行動に納得します。
コメント