「なんであの人が死ななきゃいけなかったの?」 難病と闘いながら「まだ生きたい」と言っていた人が突然亡くなり、 一方で「もう生きていたくない」と思っている自分が何年も生き続けている。
そんな理不尽に、何度も出会ってきた。
うつ病という病を抱えながら生きていると、 社会の中で語られている「生きているだけで価値がある」という言葉が、 どうしてもきれいごとに思えてくることがある。
■ 精神疾患の人は本当に短命なのか?
統計的には、精神疾患を抱える人はそうでない人に比べて平均寿命が短い。 しかし、それは「急死」ではなく「生活習慣の積み重ね」や「医療へのアクセスの格差」による。
一方で、長期のうつ病患者は“死にたい”と思いながらも、 何年も生き続けることがある。 なぜなら、「死ぬ気力すら出ない」状態が長く続くからだ。
自殺は“行動”が伴う。 でも重度のうつ病では、その行動力すら湧かなくなる。 生きることすらつらいのに、死ぬための行動もできない。
それが、「死にたいのに生きている」状態の正体だ。
■ SNSに溢れる「うつ病が治りました!」の違和感
「うつ病を克服しました」「この方法で元気になれました」 そんな投稿がSNSにはあふれている。
だが、そうしたアカウントを見るたびに、ふと思ってしまう。
本当にそれは“治った”のか? あるいは“軽度だった”だけなのではないか?
あるいは、「治った人」しか声を発していないから、 「今も苦しんでいる人」は見えにくい。
これはいわゆる“サバイバルバイアス”だ。
■ なぜ「生きたい人」が先に亡くなるのか?
難病や不治の病と戦いながら、希望を持って生きていた人が、 ある日突然亡くなる。
一方で、慢性的に死にたいと思いながら生きている自分が、 何年も何十年も命をつないでいる。
これは、「命の長さと意志が比例しない」という現実だ。
生きる意志が強いから長生きする、というのは神話にすぎない。 現実は、身体的リスクや偶発的な要因、そして社会的な構造によって、 「生きたい人」が亡くなってしまうことは多々ある。
■ 「楽しいことを見つけよう」という言葉の暴力性
精神科やリウマチ科で「ストレスをためないように、楽しく生きましょう」と言われることがある。
でも、うつ病患者には「楽しいことって何?」というところから始まる。
何をやっても楽しめない。 好きなことすらわからない。
それなのに「楽しく生きて」と言われると、 自分が劣っているような気持ちになってしまう。
■ 生き続けることの意味は、後から見つかるのだろうか?
今、生きる理由がわからなくてもいい。 意味が見つからなくてもいい。
大切なのは、「意味を持てなくても、生きていい」と自分に許可することだ。
生き続けていることそのものが、誰かの“まだ生きてていいんだ”という支えになる。 それはすぐに形にならないが、確かに届いている。
と思うしかない。
● まとめ
- 生きたい人が早く亡くなるのは不条理でもあるが、構造でもある
- 精神疾患で死にたいと感じていても、生き続けることは多い
- 「治った人」だけが発信するSNSの世界にはサバイバルバイアスがある
- 楽しさや意味を見つけるのが難しい状態でも、ただ生きていていいと思うようにするしかない
この記事が、「不条理の中にいる人」にとって、 少しでも自分の感覚を説明するための材料になりますように。
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