認知行動療法(CBT)に違和感を覚える理由
--長期のうつ病と思考の「条件反射」という視点
※この記事は、筆者自身の経験と考察に基づくものです。
治療方針や療法の選択については、必ず主治医・専門家にご相談ください。
はじめに|「正しいはずなのに、苦しい」という感覚
うつ病の治療法として、**認知行動療法(CBT)**はよく知られている。
医学的エビデンスもあり、多くの人に効果があるとされている治療法だ。
それでも一方で、
- 理屈は理解できるのに、つらい
- 「考え方を変えられない自分」を責めてしまう
- なぜか追い詰められた気持ちになる
そう感じている人も少なくないのではないだろうか。
この記事は、CBTそのものを否定するものではない。
ただ、長期のうつ病という文脈では、別の捉え方が必要になることがある。
その違和感を、正直に言葉にしてみたい。
うつ病を経験したことがない人にも、
「こういう感じ方がある」という一つの視点として、知ってもらえたらと思う。
CBTは「短期で成果を出す」ことを前提にしている
認知行動療法には、はっきりした特徴がある。
- 回数が限られている(10回前後が一般的)
- 毎回テーマや課題がある
- 短期間での変化を目指す構造
これは裏を返せば、
- 思考の癖がまだ固定化していない状態
- 自分の考えを客観視できる余力がある状態
を前提に設計されている、とも言える。
初期・軽症・回復期のうつ病では、
この設計がうまく機能することも多い。
個人的には、CBTは
ハローワークの職業訓練に少し似ていると思っている。
短期で集中的に学び、その道に進める人もいる。
一方で、合わない人がいるのも自然なことだ。
それ自体が良い・悪いという話ではない。
長期のうつ病では、思考は「癖」ではなくなる
うつ病が長く続くと、思考の性質は変わっていく。
何か出来事が起きたとき、
- 考える
ではなく - 即座に反応が出る
という状態になることがある。
自責、無価値感、絶望感。
それらは「選んだ考え」ではなく、
条件づけられた反応に近い。
梅干しのたとえ
何度も梅干しを食べたことがある人は、
梅干しの写真を見ただけで唾液が出る。
これは意志の問題ではない。
神経の反応だ。
長期のうつ病の思考も、これとよく似ている。
考えようとする前に、もう反応が起きている。
「考え方を変えましょう」は、反射には届かない
この状態に対して、
- 別の見方をしましょう
- 現実的に考え直しましょう
と言われることがある。
しかしそれは、
「梅干しを見ても唾が出ないように努力しましょう」
と言われている感覚に近い。
反射は、説得では止まらない。
努力不足でも、理解力の問題でもない。
このズレこそが、
CBTに対する強い違和感や、
「できない自分」への自己否定を生む原因になる。
反射は「なくすもの」ではない
長期のうつ病において重要なのは、
- 反射を消すこと
ではなく - 反射が起きる前提で生きること
反応が出たときに、
「またダメだった」
「成長できていない」
と意味づけを重ねる必要はない。
ただ、
「今、神経の反応が起きている」
それだけでいい。
「受け止める」とは、どういうことか
受け止めるというのは、
我慢することでも、諦めることでもない。
たとえば筆者の場合、
- 反射的な思考が出たら
「ああ、また来たな」
と心の中で確認する - そして
「もし今やめたくなったら、やめて逃げてもいい」
と自分に言う
それだけで、ダメージはかなり違ってくる。
反射を正そうとしない。
戦わない。
むしろ、自分に寄り添う言葉を返す。
今
CBTは万能ではない、というだけの話
繰り返すが、この記事はCBTを否定していない。
CBTは、
- 合う人には、確かに助けになる
- 使う時期と条件が合えば、有効な道具
ただし、
すべての人、すべての段階に合うわけではない。
それを言葉にすることは、
治療への反抗ではなく、自己理解だと思っている。
おわりに|「治らない自分」との歩き方
長期のうつ病では、
思考は「修正する対象」ではなく、
共存する対象になることがある。
反射は消えないかもしれない。
でも、
- 出てもいい
- 出ても壊れない
- 出ても生きていける
その形は、確かに存在する。
「考え方を変えられない自分」は、
怠けているわけでも、劣っているわけでもない。
それは、
これまで必死に生き延びてきた結果、
神経がそう反応するようになっただけだ。
社会や周囲は、
「人は死んではいけない」という前提で回っている。
だから私たちは、何とか生きていかざるを得ない。
それなら、
無理に直そうとするよりも、共存する方法を探したほうがいい。
私は、そう思っている。

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