病院の帰り道に街中のコンクリートの上を、ふにゃふにゃと歩く一匹の大きなカタツムリと遭遇。
そのままでは乾いてしまうか、踏まれるか、どこへ向かうかもわからない。そんな姿を見て、迷わず草場へと移した。
しかし、それは本当に「正しい選択」だったのか?
生かすべきか、見送るべきか—生命の選択
自然界では、強いものが生き残り、弱いものは淘汰される。これは残酷なようでいて、実はとても合理的な仕組みだ。もしそのカタツムリが都市環境で生き抜く力を持っていないのなら、運命に従わせる方が正しかったのではないか?
一方で、人間は「助けたい」「守りたい」という本能を持つ生き物だ。
カタツムリを移すという行動は、単なる介入ではなく、人間の優しさの証とも言える。
“救済” の裏にある自己満足
生かしたことで、そのカタツムリは本当に幸せになったのか?それとも、自分の良心を満たすために「余計な手出し」をしてしまっただけなのか?
動物を助ける行為は時に、救う側の自己満足に過ぎないという意見もある。
それでも、あのまま放置していたら、乾いたコンクリートの上で命を落としていた可能性が高い。ならば、「少なくとも生きる可能性を増やした」という点では、意味のある介入だったとも言える。
結論:答えは出ないからこそ考え続ける
生きることは楽なことじゃない。迷いながら、それでも歩み続けるのが生というもの。
カタツムリの命は、自分の手によって一瞬、別のルートを歩むことになった。しかし、それが正しいかどうか、誰にもわからない。
「早く殺すほうが正解だったのかもしれない」
この問いは、人間社会にも通じる。生きながらえることが本当に幸せなのか?
それとも、静かに終わらせるほうが救いなのか?
どちらが正解なのか、それは誰にもわからない。だからこそ、私たちは考え続けるのかもしれない。
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