40年ひきこもっていた国近斉さんの話は、決して他人事ではない

社会の一員として底辺でもいいからひっかかっておきたい

 

山口県宇部市に住む国近斉さん、62歳。高校中退後から、実に40年近くにわたって、社会との接点を絶って暮らしてきた。

私たちはつい、「ひきこもり」という言葉を、自分とは遠い“どこかの誰か”の話として受け止めがちだ。けれど、国近さんの姿を見つめていると、じわじわと胸に迫ってくるものがある。

これは、「今たまたま社会に適応できている人間」と「そうでなかった人間」の、ほんの一歩の違いにすぎないのではないかと。

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誰にでも起こりうる「関係の断絶」

国近さんは55歳のとき、NPO法人に相談した。それが、外の世界との再接続の第一歩だった。2年後には就労も果たした。

そもそも、社会から離れたくて離れた人などほとんどいない。家族関係の悪化、職場でのいじめ、発達特性、病気、失業、災害、死別……きっかけは人それぞれだが、その根底にあるのは「誰にも頼れなかったこと」「声を上げても届かなかったこと」ではないか。

ひきこもりとは、甘えではない。社会との関係が断絶された結果、そこで固まってしまった“時間の化石”なのだ。誰にでも起きうることだと思う。

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「年齢」も「時間」も、偏見という名の壁になる

55歳で相談を始めたとき、国近さんはすでに高齢者一歩手前だった。40年という歳月は、失われたというよりも「見えなくされていた」時間だ。

社会は「何歳までにこれをすべき」と線を引く。中高年のひきこもりに対しては、就労支援ですら門戸が狭くなる。就職氷河期に社会からはじき出された人々が、歳を重ねるごとに“不可視化”されていく現実がある。

だが、国近さんのように、今からでも外とのつながりを築ける人がいる。むしろ、高齢になってからだからこそ、人との接点が命綱になるケースもある。

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他人事ではない、私たちの問題

コロナ禍で人との距離が分断されたあの時期、多くの人が孤独の入り口に立った。SNSやテレワークによって、表面的なつながりだけが残り、実質的な孤立が加速した人もいる。

メンタルを崩すこともある。家族と折り合いが悪くなることもある。病気や介護、失業で生活が傾くこともある。そうした“誰にでも起こりうる状況”が、ひきこもりの入口だ。

国近さんの40年は、決して特異な人生ではない。それを他人事と思うことこそが、私たちの感覚の麻痺なのかもしれない。

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終わりに:私たちも、いつか国近さんになるかもしれない

誰かの物語を「感動の美談」にして終わらせてしまえば、また誰かの苦しみを見過ごしてしまうかもしれない。

国近さんの生き方は、遠い誰かの話ではない。

40年のひきこもりを経て、再び社会とつながった人がいるという事実は、私たち一人ひとりにとっての「希望」であり、同時に「問い」でもある。

この先何があるかなんて、誰にも予測できないのだから。
だからこそ、誰かの“今”を、他人事のままにしておけないのだと思う。

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