障害と「優しさ」の解離 ― 親に感じた偽善について

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はじめに

私は子どもの頃、両親から「障害者には優しくしなさい」と教えられて育ちました。

「手足があるあんたは恵まれているのだから、あの子たちに比べたら幸せなのよ」という言葉を何度も聞きました。

当時は素直に「そういうものなんだ」と思っていました。

しかし、私自身が障害を持つ立場になったとき、その言葉は大きな矛盾として胸に突き刺さりました。

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「障害者には優しく」という教えの裏側

両親の言葉を振り返ると、それは本当の意味での共感ではなく、健常者の立場からの「上から目線」の優しさだったのではないかと思います。

「障害者」という存在を自分たちとは別の特別な人と位置づけ、その人たちに施しを与えるような感覚。

それは平等や共生ではなく、どこかで「他人事」として扱っていたのかもしれません。

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娘が障害を持ったときに起きたこと

ところが、いざ娘である私が障害を持ったとき、両親は優しい言葉をかけてはくれませんでした。

むしろ「臭いものには蓋」という態度で、見なかったことにされているような孤独を感じました。

まるで昔話に出てくる「姨捨山」に捨てられたような感覚です。

「他人の障害者」には優しくできても、「自分の子どもが障害者になった現実」には耐えられなかったのかもしれません。

それが、私には大きな「偽善」に映りました。

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生まれつき障害を持つ子を育てた親との違い

ここで大きな「解離」があると感じます。

  • 生まれつき障害を持つ子どもを育ててきた親御さんは、日常の中で自然に「配慮」と「共生」を学んでいます。障害は当たり前の現実として存在し、そこから逃げることはできません。
  • 一方、健常者の子しか育てたことのない親は、障害を「理念」や「道徳」として語ることはできても、いざ自分の家庭に現れると受け止めきれない。

この差が、「リアルな優しさ」と「表面的な優しさ」の違いを生み出しているのだと思います。

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終わりに

私は今でも思います。

本当の優しさとは、自分の身近な人が障害を持ったときにこそ試されるものではないでしょうか。

「障害者には優しくしろ」という言葉は、決して間違ってはいません。

しかし、それが「外の人」にだけ向けられ、家族に対しては適用されないのなら、それはただの偽善にすぎないのです。

この経験を通して、私は「優しさとは何か」「偽善とは何か」という問いを突きつけられています。

もちろん、何が正しいとか悪いとかって言いたいわけではなくて、言ってることでやってることが違うなぁって私は普通に思っただけです。

だから、あの時、祖母の介護も放棄したのだなと納得してしまいました。

 

 

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