精神疾患を持つ人たちが集まる場所にいると、不思議な感覚になることがある。
病気の話をしているわけでもないのに、日常のちょっとした出来事や考え方が、驚くほど自然に通じるのだ。
一言伝えただけで、
「つまり、こういうことでしょう?」
と返ってくる。
説明を重ねなくてもいい。言葉を削っても伝わる。
この感覚は、いわゆる多数派の人たちと話しているときには、なかなか得られないものだ。
病気だから似ているのではない
よく言われるのは、「精神疾患の人は認知の歪みがある」という説明だ。
けれど、私はそれに少し違和感を覚えている。
最初から大きく歪んでいた人は、実は多くないのではないだろうか。
むしろ、感受性が強く、物事を深く受け取りすぎてしまう性質が、長い時間をかけて心身を疲弊させた結果として、症状が表に出た——そう考えたほうが、しっくりくる場合もある。
つまり、話が合う理由は「病気」ではなく、もともとの思考の方向性や感受性が近いからなのではないか。
世界の見え方が、少し違うだけ
例えば、雨の日。
多くの人は
「洗濯物が干せない」「外出が面倒だ」
と実用面を考える。
一方で、感受性が強い人は、
「空気が重い」「音がやけに響く」「理由もなく胸がざわつく」
そんなふうに、世界を受け取ることがある。
どちらが正しい、間違っているという話ではない。
ただ、世界の捉え方の解像度や方向が違うだけなのだ。
精神疾患を持つ人同士が話しやすいのは、この「感じ取っている世界」が似ているからだと思う。
見捨てられない性質と、生きづらさ
道で弱っている動物を見て、見なかったことにできない。
困っている人がいれば、自分の余裕がなくても気になってしまう。
そうした性質は、美徳として語られることもある一方で、社会の中では生きづらさにもなる。
見捨てられない、割り切れない、感じすぎてしまう。
もし、もっと鈍感でいられたら。
もし、もう少し世界を単純に処理できたら。
そう思う瞬間がある人ほど、同じような感受性を持つ人と出会ったとき、深い安堵を覚えるのではないだろうか。
優劣の話ではない
ここで大切なのは、
「精神疾患の人のほうが優れている」
とか
「多数派の人が冷たい」
という話ではないということだ。
ただ、心のOSが違う。
処理の仕方が違う。
それだけのことだ。
そして、その違いが可視化された結果として、精神疾患という診断名が与えられている場合もあるのだと思う。
おわりに
精神疾患の人同士で話が合うのは、決して偶然ではない。
病気だから理解し合えるのではなく、
世界をどう感じ、どう受け取ってきたかが似ているからだ。
そう考えると、
「自分はおかしいのではないか」
という問いは、少し形を変える。
——ただ、違う世界を生きていただけなのかもしれない。
※本記事は、医学的な助言や診断を目的としたものではなく、筆者個人の体験と考察に基づくエッセイです。

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