「好きなものは?」「何が嫌い?」 そんなシンプルな質問に、私はうまく答えられません。
幼少期から「それはダメ」「そんなの社会で通用しない」と言われ続け、気づけば自分の“好き”も“嫌い”も、何もわからなくなっていました。
いま、私は“無”の中にいます。今日は、そんな私の過去と心の風景を、少しだけ書いてみようと思います。
否定され続けた子ども時代
「好き」だったはずのもの
幼稚園のころ、私は二つのことに異様なほど執着していました。
ひとつは「お菓子」。
誰かからお菓子をもらうと、それを食べずにお気に入りの大きな袋に大切にしまっていました。賞味期限が切れてもなお、保管し続ける。リスのように一口だけかじって、あとは貯めて楽しむ。
もうひとつは、サンリオのキキララ。
キキララグッズに少しでも傷がつくと、私は何時間も拭き続けたり、汚れを落とそうとしたりしていました。商品の傷の数を数えながら気にしたりして、とにかく執着していました。
それが、当時の私にとっての“好き”でした。
「それでは社会で通用しない」
ところがある時期から、私はそれらをぱったりとやめてしまいます。
親にこう言われたからです。
「そんなの、社会では嫌われるよ」 「会社に入ったら通用しないよ」
好きで大事にしていたものが、否定される。 「それはおかしい」「気持ち悪い」と断じられる。
私はそれらを「捨てる」ことで、大人の期待に応えようとしたのだと思います。
何が好きか、何が嫌いかもわからなくなった
“好き”を持たないことで、私は怒られなくなりました。
「なんでもいいよ」「合わせるよ」 と生きているうちに、今度は「何が好き?」と聞かれることがつらくなりました。
何が嫌いかもわからない。 「これは嫌だ」と感じても、「でも社会では……」と打ち消す癖がついている。
その結果、判断軸が自分から他人になり、 選ぶことがどんどん怖くなっていったのです。
収集癖を否定されたとき、何が起こるか
ある日、Yahoo!知恵袋でこんな相談を目にしました。
夫の古書コレクションを、出張中にすべて処分してしまいました。 その後、夫は無言になり、本の話をしなくなり、物を減らし続け、今では何もない部屋に暮らしています……
この話を読んだとき、私は深く共感しました。
好きなものを、誰かに一方的に“否定”され、“奪われる”というのは、 モノだけでなく、その人の“自己そのもの”を削る行為です。
心理学でも「アイデンティティと結びついた所有物の喪失」は、大きな虚無感や防衛反応を引き起こすとされています。
その防衛のひとつが「無関心」や「極端なミニマリズム」。 「もう何も持たなければ、傷つかなくてすむ」という無意識の選択です。

私はいま、“無”の中にいる
今の私は、自分の好きも嫌いも、よくわかりません。 ただ、ひとつだけ確かなことがあります。
それは「人が嫌い」ということ。
それだけは、なぜか明確に感じます。
多くの人にとって、「好き」がアイデンティティを形づくります。 でも、私のように繰り返し否定されて育つと、「好き」はむしろ危険なものになります。
だから、“無”になるしかなかった。
同じような人へ
もしかしたら、この記事を読んでいるあなたも、 自分の「好き」や「嫌い」がよくわからないかもしれません。
そんなときは、自分を責めないでください。
“無”の中にいることは、決してダメなことではありません。 それは過去にちゃんと「好きだったもの」があった証拠でもあります。
焦らず、ゆっくり。 かつての自分が夢中になった「小さなもの」を、 思い出すことから始めていいのだと思います。
おわりに
今の私は“無”の中にいます。 でも、その“無”に気づいているということは、 もう一度、何かを取り戻したいと願っている心が、 まだこの中にあるという証拠でもあると思っています。
去年から30年ぶりぐらいにキキララを集めているのですが、心の「無」の私にとっては「無」でしかないのですが一応持っています。何の感情も湧きません。
私は猫を飼っていますが、人間よりも違和感なく一緒に過ごせます。話はできなくても人間よりも意思疎通ができるような気がします。
さきほど、精神科の帰りに神社に寄り「猫を最期まで上手に看取れますように、わたしも上手に亡くなりますように」とお願いしました。将来何が起きるかなんてわからないから、うまい具合に最期ぐらいはそうなればいいなと思いいつもそう祈っています。
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