虐待されると「好き」も「嫌い」も言えなくなる?──感情を失う仕組みと社会での違和感

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■ はじめに:好き嫌いが言えないという生きづらさ

「これが好き」「あれは苦手」――
そんな当たり前の感情表現が、どうしてもできない。

子どもの頃から虐待や心理的圧力の中で育った人にとって、「好き嫌いを口にすること」は、命に関わる危険だった。家庭内で感情を出すことが「反抗」と見なされ、即座に否定・叱責・無視された経験を繰り返せば、人はいつしか「自分の感情」を見失っていく。


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■ 「好き嫌い」は“許される環境”で育つ

例えば、社会で堂々と「これは嫌いだからやらない」「私はこれが好き」と言える人を見ると、不思議な気持ちになる。

「なんでそんなに自信を持って言えるの?」
「どうしてそんなふうに断れるの?」

そう思ってしまうのは、「好き嫌いを言ってもいい家庭」「感情を尊重される環境」で育った人と、自分との間に前提の差があるからだ。

虐待家庭では、“親の顔色を読む”ことが最優先になる。自分の感情や欲求を出すことは、時に命のリスクを伴う。そうして「好き」「嫌い」という健全な自己主張は削ぎ落とされていく。


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■ 感情がわからない。好きも嫌いも、言語化できない

虐待の後遺症として、次のような状態がよく起きる:

  • 自分の好みがわからない

  • 「何がしたい?」と聞かれても困る

  • 嫌なことを嫌と言えない

  • NOを出すと罪悪感が湧く

  • 誰かの意見にすぐ合わせてしまう

これは甘えでも気分屋でもなく、「感じてはいけない・主張してはいけない」と刷り込まれてきた脳の適応反応。いわば、生存戦略だった。


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■ ADHDとの違い:「はっきり言える」の性質

なお、「自分の感情をすぐに言ってしまう」というタイプの人もいるが、それが発達特性(例:ADHDやASD)によるものである場合、「許されて育った」のとは別の要因である可能性もある。

性格的に静かで、あえて口を閉ざすタイプは、社会では「大人しくていい子」と扱われがちだが、その裏には「言うことが許されなかった過去」が潜んでいる場合もある。


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■ 社会に出たときにぶつかる“無意識の違和感”

感情を言うことが当たり前のように許される人たちと接するなかで、「自分だけ何も言えない」「言っていいという感覚がわからない」と気づいたとき、強烈な違和感と疎外感が生まれる。

そのとき初めて、自分が育った環境が「おかしかったのかもしれない」と、ゆっくり気づいていく。


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■ 好き嫌いを取り戻すには:少しずつ、練習のように

・自分の感情をジャッジせず書き出す
・「なんとなく嫌」を言葉にしてみる
・安全な人との会話で練習する
・過去の好きだったものを掘り返す
・自分の「嫌」が出てくる瞬間を観察する

感情は“取り戻せる”ものです。一気には無理でも、毎日の小さな選択――たとえば「今日の服、どれにする?」「ごはん何食べたい?」という自問自答から、少しずつリハビリができます。


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■ おわりに:「感情」は生まれ持った命のセンサー

「好き」「嫌い」を言えなかったのは、あなたが悪かったからじゃない。
それは、言ったら潰される環境だったから。
今、そのセンサーを取り戻そうとしているなら、それは命の復活です。

無理せず、急がず、「あ、自分はこれ、嫌かも」と気づけたとき、それは心の中の自由が広がった証です。

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