引きこもりっていってもひとくくりにはできない

配信者の石川典行さんが引きこもりを語っていました。

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引きこもりにも“種類”がある?

ネットでつながる人と、完全に社会から断絶した人の違い

ひきこもりのドキュメンタリーを私もよく見る。
「いろいろな方がいるんだな」と思う。

引きこもりという言葉だけでは、くくれない。
ネットで発信したり、会話ができたり、社会とゆるくでもつながっている人たちには、ある種の“現代性”がある。
ところが、完全に社会から遮断された生活を送ってきた人の言動には、独特の“違和感”がある

どこか、幼いのだ。

とか言いつつも、私も人を前にすると上手く話せないから人のことは言えない。
自分と似たものを感じている。


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時間が止まったままの「大人」

その人が、いつから引きこもっているのか。
どのように時間を過ごしてきたのか。
その背景によって、言動や振る舞いに差が出てくるのかもしれない。

引きこもりが早ければ早いほど、長ければ長いほど、言葉や発想が「その時のまま」で止まっているように感じられることがある。
本人の中では、自分はまだ「若者」や「子ども」のままなのかもしれない。

でも、髪は薄くなり、年齢は中高年――
「子どもの言葉を話す大人」というギャップに、私たちは戸惑いを覚えるのだ。


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「時間が経てば、何とかなる」と思っていた

私も、昔こんなふうに思っていた。

時間が経てば、もしかしたら状況が良くなるかもしれない

でも、そうはならなかった。
時間はただ、過ぎるだけだった。
何も変わらないまま、歳だけを重ねていくことの怖さを、私は知っている。


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もしかすると、私もなるかも?

資産がある家庭や、特別な支援がある場合は別として、
多くの家庭では、親がいなくなったら生活が立ち行かなくなるかもしれない

だから国近斉さんのような話は、決して他人事ではないし、笑えない。
私だって、孤独死するかもしれない――そんなふうにここのろこと毎日考えている。

どうせ、亡くなる確率は100%なんだから。
せめて、穏やかに亡くなれたらいいな。それが、いまのところの希望です。

だったら、社会と少しでも接点を持っていたほうがいいのかもしれない。
ネットのゲームで友達見つけてもいいし、たとえ細くても、どこかで誰かと繋がっていることが、この先の自分を助ける糸口になるかもしれないから。

だから、私も今発信してるんだ。

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