「私が治らないように、彼らも治らない」――うつ病と虐待の不可逆性について思うこと

私は長年、うつ病を患っています。
TMS(経頭蓋磁気刺激療法)やトリンテリックス(最新の抗うつ薬)といった最先端の自由診療にも挑戦しました。高額な費用を払い、「これで良くなるかもしれない」と何度も希望を抱きましたが――結局、治りませんでした。

これは、私の体質や努力不足が原因ではありません。
子どもの頃からの家庭環境(毒親)による長期的な精神的損傷が、脳に及んだ変化が、すでに回復不能な段階にある、それだけのことです。

もしかすると、甲状腺機能低下症やリウマチ因子陽性など、他の身体的な要因も関係しているかもしれませんが、それも含めて「もうどうにもならない領域」に来ているのだと思います。


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「ああ、これって治らないんだ」――確信した瞬間

何度も再発を繰り返すうちに、私は気づきました。
これは「一時的な病気」ではなく、「脳の損傷」に近い。心ではなく、器そのものが壊れてしまっているという感覚です。

そしてそのとき、ふとある現実とつながりました。
虐待を受けた子どもが起こす問題行動も、同じ構造なのではないか。


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問題行動は“わがまま”でも“反抗”でもなく、損傷の結果

脳科学によれば、幼少期に虐待を受けた子どもは:

  • 扁桃体が過敏になり、常に恐怖や怒りを感じやすくなる

  • 海馬が縮小し、ストレス耐性が低下する

  • 前頭前皮質の働きが弱まり、感情や衝動のコントロールが難しくなる

つまり、幼少期の虐待は脳の構造そのものを変えてしまうのです。

これは、私自身が「努力しても治らなかった」という体験を持っているからこそ、身をもって理解できます。
問題行動もまた、本人の意思や頑張りで“治す”ことはできないのだと。


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「全員がそうなるわけではない」けれど

もちろん、虐待されたすべての人が問題行動に走るわけではありません。
でも、そうなってしまった子が“常識的な生活”を送るのは、非常に困難だと思います。

私はうつ病を通して、彼らのことを思います。
私が治らないように、彼らも寛解までたどり着くのは難しいのではないか。

早い段階で誰かが手を差し伸べていれば違ったかもしれません。
でも、誰にも助けてもらえなかったのなら、もう「しょうがない」んです。


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「加害者にも事情がある」「愛があれば変われる」という幻想

「加害者にも背景があるから責めないで」
「愛情を注げば再生できる」
そんな言葉をよく聞きます。

でも、脳がすでに損傷している人に、“愛”や“理解”だけで何とかできる範囲は限られています。
それは冷酷でも絶望でもなく、ただの事実です。

私が治らないように、彼らも治らない。
それが、私の人生を通して得たひとつの現実です。


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本人も、そして巻き込まれた人も

本人が苦しんでいるのは確かです。
でも、その人から何らかの被害を受ける他者――無関係な人が事件に巻き込まれることもあります。
だからこそ、「本人も可哀そう」だけでは済ませられない。


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結論:「治らない」を前提に、生き方を変えるしかない

私たちは「治ること」を前提に生きるよう刷り込まれています。
でも、治らない病がある。壊れたままの脳がある。

それに対してのアプローチって限界があるなって思っています。
ポジティブに生きていくのはいいことだけど、やっぱりその限界もあるなっていうのが最近本当によく思っています。

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