ていねいに生きることの美しさを、うつ病の人は知っている
朝の光に気づくこと。
湯気の立つ味噌汁を「ありがたい」と思えること。
誰かの言葉に、ちゃんと返事をすること。
それらがどれほど尊く、どれほど“生きている”という実感につながるかを、
うつ病の人は、知っている。
なぜなら、それができなくなったときの喪失感を、知っているから。
感覚がマヒするということ
うつ病になると、五感が鈍くなる。
味がしない。音が遠い。言葉が届かない。
自分の声すら、どこか他人のもののように感じる。
「ていねいに生きたい」と思っても、
その“ていねい”に手が届かない。
それが、どれほど苦しいか。
思っている自分と、動けない自分のあいだで
「こうしたい」「こうありたい」と思っているのに、
体も心も動かない。
そのギャップに、自己嫌悪が生まれる。
でも、それでも、
“ていねいに生きたい”と願っていること自体が、もうすでに尊い。
ていねいさは、完璧じゃなくていい
顔を洗えた日。
ごはんを一口でも食べられた日。
誰かの言葉に、うなずけた日。
それは、ていねいに生きた証。
うつ病の人が、感覚の霧の中で見つけた小さな光。
まとめ:ていねいに生きることは、誰かと比べるものじゃない
「ていねいに生きる」とは、
完璧な暮らしをすることでもない。
“今の自分を、できる範囲で大切にすること”
それが、ていねいさの本質なのかもしれません。
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