私たちは常にどこかに依存している
私たちは常にどこかに依存している
私たちは常にどこかに依存して生きています。
ここで言う依存とは、社会的な繋がりや精神的な支えのことである。
これは、きれいごとでも悲観論でもありません。事実です。
- 収入を得るために会社に依存する
- 生活のためにお金の仕組みに依存する
- 孤独を避けるために、人とのつながりに依存する
完全に「何にも依存していない人」は、ほとんど存在しません。
依存は、特別な人だけの問題ではなく、人が社会で生きる以上、避けられない構造なのです。
人は「依存なし」で生きられるのか
よく「自立しなさい」「依存するのは弱いことだ」と言われます。
しかし、現実はどうでしょうか。
仕事を辞めれば生活は成り立たず、
評価されなければ居場所を失い、
誰からも必要とされなければ、人は簡単に心を病みます。
つまり私たちは、
依存しないことを求められながら、依存せずには生きられない社会に生きています。
この矛盾は、あまりにも見過ごされています。
なぜ「カルト教団」だけが異常だとされるのか
カルト教団は「危険だ」「異常だ」と語られます。
確かに、実際に深刻な被害を生んできた団体が存在することは事実です。
ただし、ここで一度立ち止まる必要があります。
なぜカルト教団だけが、これほど強く「異常視」されるのでしょうか。
理由の一つは、
- 教義が明確
- 集団が可視化されている
- 外から見て分かりやすい
という点にあります。
しかし、依存構造そのものは、社会のあらゆる場所に存在しています。
目に見えやすいものだけを「異常」と呼び、
見えにくい依存を「普通」として扱ってはいないでしょうか。
アイドル・推し活・企業文化との共通点
現代には、宗教でなくとも強い依存を生む仕組みが数多くあります。
- お金を使うほど「近づける」
- 離れようとすると罪悪感を刺激される
- 「応援しない=裏切り」という空気
アイドル文化、推し活、企業文化、コミュニティ。
形は違っても、心理的な構造は驚くほど似ていることがあります。
「心を捧げる」という言葉が使われる場面も珍しくありません。
依存は、宗教だけの専売特許ではないのです。
推し活をするために生活を犠牲にして借金をする人だっています。
「出入り自由」という言葉の嘘
よく言われます。
「嫌なら辞めればいい」「自由に出入りできるから問題ない」と。
しかし、これは形式上の話です。
心理的・社会的な依存が深い人ほど、簡単には離れられません。
- ここを失ったら自分は空っぽになる
- ここしか居場所がない
- 離れた自分が間違っている気がする
こうした状態は、外からは見えにくく、本人にも自覚されにくい。
自由であることと、逃げられることは同義ではありません。
人は枠組みなしでは生きられない
人は、何らかの枠組みの中でしか生きられません。
- 性別
- 国籍
- 名前
- 役割
それらは、生まれた瞬間から与えられます。
そして重要なのは、こうした枠組みや依存が、私たちのアイデンティティーそのものにもなっているという点です。
「どこに属しているか」
「何を信じているか」
「何を大切にして生きているか」
それらは単なる環境ではなく、
自分が自分であると感じるための土台になります。
だからこそ、
依存や枠組みをすべて否定してしまうと、
人は自由になるどころか、
自分が何者なのかわからなくなってしまうこともあります。
問題は「枠組みがあること」ではありません。
その枠組みが壊れたとき、逃げ道があるかどうかです。
まとめ:依存は「悪」ではない。見えなくなることが危険
- 人は誰でも、何かに依存して生きている
- カルトだけが特別に異常なわけではない
- 依存構造は社会の至る所に存在する
- 危険なのは、依存そのものではなく、見えなくなること
「依存しない人間」を理想にするよりも、
自分が何に依存しているのかを知ることのほうが、よほど現実的です。
それは、誰かを断罪するためではなく、
自分を守るために必要な視点なのです。

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