「命は大切」と言われる一方で、重度障碍者と暮らす家族は、声を上げられない葛藤を抱えています。人権と現実の狭間にある真実に耳を傾けてみませんか。
重度障碍者とともに生きるとは──人権の陰にある、家族の葛藤
「人権は守られるべきもの」──これは誰もが疑わない、現代社会の基盤となる価値です。
けれど、その“守られる存在”と暮らす家族にとっては、それが必ずしも美しい物語にはなりません。
そこには、声にできない葛藤と、言葉にできない現実があります。
「事件の裏側」で語られなかった女性の声
2024年、あるニュースが報じられました。
相模原障碍者施設殺傷事件の犯人とされる死刑囚が、文通を通じてある女性と獄中結婚していたという内容です。
注目されたのは、その女性の過去でした。
彼女は15歳の頃、知的障碍のある男性から性被害を受けたにもかかわらず、加害者は不起訴となり、事件は裁かれることなく終わったというのです。
「国が“無罪”を宣言してしまったとき、私はどこにこの怒りと傷を向ければよかったのか、わからなかった」
彼女の語る言葉には、深い喪失と孤独、そして“理解されなかった痛み”が滲んでいました。
事件への賛同ではない。思想の共有でもない。
ただ、「誰にも理解されなかった者」として、彼女はひとつの痛みに手を伸ばしたのかもしれません。
重度障碍者を支える家族の「語れない現実」
私は、かつて“のぞみの園”という重度障碍者の大きな国立施設を取材したドキュメンタリーを観ました。
印象的だったのは、「たくさんいる重度障碍の入所者のうち親族で会いに来る人はほぼいない。1組だけ、月1度父親が娘さんに会いに来る」という事実です。
家族の住んでいるところが施設より遠方で、親族も高齢で会える状況ではない人もいると思いますが、会いに来ない人がほとんどだと施設の人が語っていました。
その父親は、月に一度だけ娘を車に乗せてドライブし、外で一緒にご飯を食べていました。
父親っていっても白髪交じりのお父さんでした。
そしてこう語ったのです。
「(施設に入っているのは)家族のため……いや、彼女、娘のためでもある」
と言葉を言い直し、静かに語りました。
他の家族を守るために施設に預けたという想いと、娘のためだったという想い。
そのどちらもが、言葉にならない想いとして交錯していました。
ニコニコしている穏やかな娘さんは幼少期からてんかんが連続して起き、他にも病気を抱えているようで、今でも頭部保護帽をつけて過ごしていました。
娘さんと言っても40代ぐらいだったと記憶しています。
この父親の姿に、私は「限界まで介護を頑張った人」の誠実さを見た気がしました。
多くのことを語らず、辛いことも吞み込んで、静かに生きてるなって感じました。
「命は大切」と言いながら、誰が支えるのか
重度障碍者とともに暮らすということは、人生を共に背負うことです。
介護には終わりがなく、仕事も時間も、将来設計すらも制限される現実があります。
そして何より、社会がその現実を“見ようとしない”ことに、深い孤独が生まれます。
「命は大切に」と言われても、
その命を守るためにすり減っていく家族の人生を、誰が見つめているのでしょうか。
支援の矛先は、「本人」だけでいいのか?
制度や支援の多くは、本人の人権を守るために設計されています。
けれどその裏側で、日々の暮らしや精神的限界と向き合っている家族のケアは、ほとんど議論されていません。
介護うつ、経済的困窮、社会的孤立。
それらは「無償の愛が前提」とされた介護の構造そのものが、生み出しているのかもしれません。
「理解できてしまう」と言ってはいけない空気
相模原事件の報道後、一部の介護者や家族の間では、
「あの感覚、理解できてしまう」と、つぶやく声がありました。
もちろん、それは事件を肯定する意味ではありません。
ただ、日々の介護のなかで「理解されなかった者の絶望」に、共鳴してしまった人がいたということ。
その声を口にした途端、激しい非難を浴びる。
「言ってはいけない感情」が、心の奥で息をひそめている社会。
それが、本当に健全だと言えるでしょうか。
最後に──責める前に、まず“聴く社会”へ
私たちは、人権という言葉の美しさの裏で、
どれだけの“声なき声”を無視してきたでしょうか。
加害でも被害でもない、
正義でも悪でもない、
ただ「語られなかった痛み」。
その声を、どうか責めないでほしい。
否定せず、まず“聴こうとする姿勢”を、社会の片隅にでもあってほしい。
「加害者にも人権がある」と言われるたびに、
被害者やその被害者家族の声がかき消されていく感覚がある。
どうすればいいのか──
私はいつも「この問題は難しいし、終わりがないな」と悩んで呆然としてしまいます。
【関連記事】
▶支える側の命の扱いがあまりに軽んじられている社会
コメント