認知行動療法と仏教の共通点──うつ病を抱える私の“今日”の気づき

今日の私は体調が良い。そう思えた今日、ふと仏教の教えが心にすっと入ってきた。うつ病を長く患っていると、時に「仏教的なものの見方」が心のどこかで理解できる瞬間がある。だけど、それが「響かない日」もたくさんある。

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執着が苦しみを生む

仏教では、あらゆる苦しみの根源を「執着(しゅうじゃく)」だと説く。何かを欲しがり、手放せず、思い通りにしたいと願う――その心が私たちを苦しめるのだと。うつ病の苦しみもまた、この「執着」と無縁ではない。

体調が悪いと、頭の中が苦しみでいっぱいになり、「良くなりたい」「元に戻りたい」「なぜ自分だけが」といった思考がリフレインし始める。わかっている、これが自分を縛っていると。でも、その思考を止められない。ループに陥る。そしてまた、自分を責めてしまう。

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認知行動療法と仏教の重なり

認知行動療法(CBT)は、思考のクセに気づき、現実的な視点を持ち直すための心理療法だ。これは仏教の「気づき(sati)」や「無常観」、さらには「観照(かんしょう)」の態度に非常に近い。

「今の苦しみは永遠には続かない」 「この思考に巻き込まれず、ただ気づく」

そんな姿勢を取ることができれば、心は少しだけ楽になる。でも──体調が悪い時は、それができない。そのことを、うつ病の人自身が一番よく知っている。「分かっていてもできない」ことが、さらに苦しみを増幅させてしまう。

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それでも、今日、気づけたということ

今日は体調が良かった。だから、「執着から苦しみが生まれる」という仏教の教えが、心の中に静かに実感として響いた。

「求めて得られないことの苦しみ(求不得苦)」、 「こうあるべき」と思ってしまう心、 「元通りになりたい」と願う気持ち。

そうした一つ一つが、また苦しみを生んでいる。手放したい。でも手放せない。そんな自分を、今日は少しだけ認めることができた。

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明日になったら、また分からない

そう、今日どれだけ理解できても、明日はまた苦しみの中にいるかもしれない。それでいいのだと思う。仏教はこうも言う:

一切皆苦(いっさいかいく) 諸行無常(しょぎょうむじょう) 諸法無我(しょほうむが)

すべてのものは苦しみを伴い、すべては移り変わり、すべては自分の思い通りにはならない。

それでも、その変化の中で、今日の「気づき」を抱きしめてみる。たとえ明日忘れても、今日それを感じられたことが、確かに命の証だった。

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おわりに

道元禅師はこう詠んだ:

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり

季節が巡るように、私たちの心もまた移り変わる。そのすべてを、ただ「そうである」と見つめられたら。うつの苦しみも、仏の教えも、そして生きていることも、今日という日に共にある。

合掌。

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